疑わしきは罰せずとか、というのが刑事裁判における原則であり、何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される、という、近代法の基本原則である。
しかし、日本ではこのような原則は全く無視されている。
冤罪可能性があっても逮捕されただけでマスコミは大騒ぎし、被告人の人権は全く顧みられず無視されるというのは良く見る光景である。
逮捕された段階では、当然推定無罪という基本原則に準拠すべきだが、日本ではそのような原則は当局により一顧だにされない。
高樹沙耶の手記で逮捕されればどうなるかを見てみると次のような人権を全く無視した扱いを受ける。
「夜の8時ごろ、取り調べが終わると、乗用車で沖縄署に向かい、留置場に入れられました。まず、着ていたTシャツ、短パン、下着も全部脱ぎ、全裸になって前かがみにさせられた。お尻になにかを隠してないかを調べる検査です。屈辱的なものでした。
そのあと、作業服のようなものに着替えさせられ、留置係の警察官に「あなたは今日から、8番と呼ばれます」と告げられた。」
「逮捕から3日後、裁判所が勾留決定をし、私は沖縄刑務所那覇拘置支所に移ることになりました。 ここでも、最初に全裸になって身体検査を受けた。」
留置所であれ拘置所であれ、まだ裁判で有罪が確定していないのだから当然無罪と推定すべきである。高木沙耶の場合は有罪だが、この段階ではまだ多くの無罪の人間も含まれている。
何の罪を犯していなくても、警察や検察に犯罪を犯していると見做されただけで、意思に反し全裸にされ尻の穴を覘かれるというような屈辱的な人権無視の扱いを受けるのである。
このような当局の野蛮な人権無視の行動が問題視されていないこと自体が不思議であり、日本という国の人権意識の低さを象徴している。
本来、まだ犯罪者と確定していない人間を拘束すること自体問題だが、百歩譲って逃走を防ぐ為だとしても、有罪判決がでるまでは移動の自由が無い以外はホテル程度の居住環境とすべきである。
本人の意思を無視し全裸で検査したり、名前でなく番号で呼ぶなどという人権無視は被告人の段階では許されるべきではない。
この留置所や拘置所の劣悪な環境と人権無視も自白強制による冤罪の温床となっていることは間違いない。